岡本英夫のFPウオッチャーだより 第45回 30年前の生保危機を振り返る

マイアドバイザー® 顧問 岡本英夫 (オカモト ヒデオ)さん による月1回の連載コラムです。
ファイナンシャル・アドバイザー(近代セールス社;2022年春号以降休刊)の初代編集長として、同誌でも寄稿されていたエッセイの続編的な意味合いのあるコラムとなります。

岡本 英夫 ⇒ プロフィール

 去る12月19日の日銀金融政策決定会合での利上げで、政策金利は0.75%になった。この金利水準は30年前の1995年以来。多くの金融人やFPが初めて経験する「金利ある時代」の復活と言ってよい。金利の復活で生命保険の予定利率も引き上げられつつあるが、予定利率の高かった30年前の保険業界を振り返ってみたい。
 筆者は1986年から2000年まで毎年10月下旬に「米国FP視察ツアー」に参加していたが、95年のニューヨークで、現地で活躍する日本人エコノミストの話を聞いた。その話の趣旨は「帰国したら生命保険は解約したほうがよい。日本の生保会社の経営は火の車で、早晩行き詰まる」というものだった。その後の生保危機を言い当てていたのである。
 この話は、帰国後の月刊「ファイナンシャル・アドバイザー」での米国視察レポートでは書かなかった。読者を通じての生保業界への悪影響を懸念したことと、日本人エコノミストとの会合が視察スケジュールとは別の個人的なものであり、参加者も視察メンバー全員ではなく、希望者数人に限られていたからだ。

「ザ・セイホ」時代に購入した米国30年債の為替リスクが顕在化

 1980年代、わが国の生命保険会社は高金利の30年物米国債を購入し続けた。金利が10%をはるかに超えていたこともあり、発行の都度、大量に購入した。当時の為替レートは1ドル=240円前後。ところが1985年9月のプラザ合意以降、急速に円高が進み1995年には1ドル=80円前後と3分の1になっていた。
 80年代前半に購入した30年債の満期は2010年以降だが、その時に1ドル=240円にまで円安が進んでいることは考えられない(2010年の円=ドル相場も80円台だった)。毎年の100ドルにつき10ドル超の金利も円に換算すれば3分の1である。為替リスクが生保の持つ資産をむしばんでいたのである。当時の予定利率の高い保険契約を考えれば、米国債での運用は逆ざやと言わざるを得なかった。
 このことを日本人エコノミストは指摘したのである。

予定利率の高い保険の大量販売も要因

 加えて80年代から90年代前半のわが国の保険業界は、20年超で5~5.5%、20年以下で5.5~6%、10年以下では5.75~6.25%という高予定利率の保険を大量に販売していた。わが国の長期国債の金利も6~7%台と高かったし、株式相場も好調で含み益もあり、不動産価格も上昇していたから、当時としては妥当な予定利率であった。

当時の生命保険の予定利率(推移)

西暦 民間生保 簡易保険(郵便局)
20年超 20年以下 10年以下 20年超 20年以下
1981.4.2~1985.4.1 5.0% 5.5% 6.0% 6.0% 5.5%
1985.4.2~1990.4.1 5.5% 6.0% 6.25% 6.0% 5.0%(夫婦保険)
1990.4.2~1993.4.1 5.5% 5.5% 5.75% 5.75% 5.5%(終身)
1993.4.2~1994.4.1 ← 4.75%(一律)→ 5.75% 5.5%
1994.4.2~1996.4.1 ← 3.75%(一律)→ ← 3.75%(一律)→

注)この時代の保険契約がのちに「お宝保険」と言われた。

 売れ筋は、運用商品としての一時払い養老保険(5年、10年)、高額の定期保険特約を有した定期付終身保険(70倍もあった)、1990年に個人年金保険料控除が5万円に引き上げられたことによる個人年金保険、さらには保険会社と銀行が提携しての相続税対策としての変額終身保険等の販売など。国内生保は競いながら保険契約を伸ばしていった。
 これに冷や水を浴びせたのがバブル崩壊であったことは言うまでもない。株式の含み益は底をつき、投資不動産の価格も低下していく。債券の金利も低下、加えて外債投資の為替リスクの顕在化である。証券会社の不祥事や、銀行の不良債権が問題になるなか、目立たなかったが保険会社の内情も危機に直面していたのである。

生命保険会社の相つぐ破綻

 1996年1月に橋本内閣が発足、4月には新保険業法が施行され、10月からは生損保子会社による相互参入が始まる。また、保険業法改正の過程でソルベンシー・マージン比率や保険会社の破綻処理方法なども明らかになった。保険契約者保護機構が設立されるのは1998年12月のことである。
 日産生命に業務停止命令が下ったのは97年4月25日。筆者はその報道に唖然とした。前年から渋谷にあった日産生命営業教育部にFP教育の導入案件のため足しげく訪問していたからだ。実施の最終段階にあった案件は気泡に帰した。担当者の複雑な表情を憶えている。日産生命の既契約はあおば生命からプルデンシャル生命に引き継がれた。
 その後、99年6月に東邦生命、2000年5月に第百生命、10月に千代田生命、協栄生命、そして01年3月に東京生命が破綻する。また2000年3月には平和生命が米エトナ生命の子会社となっている。このうち、東邦生命、千代田生命とはFP案件で少なからず交流があり、東邦生命の保険契約を引き継いだAIGエジソン生命のFP研修にも携わった。
 千代田・協栄生命2社(保険契約はジブラルタ生命が継承)の破綻は、両社のみならず大手生保の保険契約者にも不安をもたらした。保険契約の解約が急増し、東京生命の破綻もこの流れの中にあった。マスコミは「次はどこか」というわけで「保険金支払い能力格付け」が雑誌や夕刊紙上をにぎわした。これが更なる不安をあおったのである。
 FPのもとには保険証券を手に来客する契約者が増え、保険に詳しいFPに対するニーズが急増した。この時期、日本FP協会のスタディグループでは、保険に関する勉強会が全国的におこなわれていた。また、破綻生保ばかりでなく大手生保からも多くの営業職員が退職を余儀なくされたが、FPに転身し活躍している人も少なからずいる。

米国からの圧力「日米保険協定」

 以上、1990年代から2000年代にかけての生保危機を見てきたが、その裏にはわが国保険業界に対する米国の圧力があったことにも触れておかなければならない。80年代の米国30年国債の入札に際し、わが国の保険会社の意向が確認されたこともそうだし、円高への転換を決定づけたプラザ合意は米国からの圧力そのものである。
 また、94年10月「日米保険協定」が結ばれ、日本政府は米国に対して、保険分野の大幅な規制緩和を約束させられた。保険手続き、保険会社の認可、保険商品の認可、保険審査の簡素化と、わが国の保険分野への外資の参入を容易にすること、生保と損保間の相互参入などである。いずれも外資の進出を容易にするための措置であった。
 破綻した生保会社の既存契約の大半が外資に移ったのもそういうことである。

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