【2006年 第3回 】 葬儀地域特性 最期まで自分らしく 相続
平川 すみ子(ヒラカワ スミコ)⇒ プロフィール
ファイナンシャルプランニングをするにあたっては、まずライフイベント表を作ってみましょうとよく聞かれることと思います。ライフイベント表とは、将来の予定(子供の進学、車買い替え、家のリフォーム等)や、住宅取得や海外旅行、独立開業などの希望などを、時系列に沿って一覧で表すものです。この表を作成することで、イベントに必要な費用と、必要になる時期が明確になってくるのですが、表を前にしてもなかなか筆が進まない方も多くいらっしゃるでしょう。
最期を決める
そんなときは、最初に自分が死ぬ年を決めましょう、とアドバイスされているファイナンシャルプランナーがいます。もちろん、いつ死ぬかなんて誰にもわからないのですが、とりあえず自分は何歳まで生きるか考えてみて、75歳と思ったら75歳の欄にその予定を書き込みます。そうすると、死ぬまでにやっておきたいことというのが自然とでてきて、さらにそれをやるためには、何年前にこれをやって・・と書き込んでいけるようになるそうです。今から将来に向かってではなく、将来から遡りながら考えるという発想に、私もなるほどと思いました。
では、ライフイベント表に自分の死期を書くとき、「死亡」「他界」といろいろな表現がありますが、なんと書きますか?私は「葬儀」が一番しっくりくるような気がします。自分の人生の最期、締めくくりが自分の葬儀ということで。もちろん、自分の葬儀は自分の死後なので、自分がやるイベントではないのですが、自分の別れの儀式なのだからこんな葬儀にして欲しいという希望はみなさんそれぞれにあるのではないでしょうか。
私自身、自分の葬儀についていろいろ考えることがあります。みんなが黒い喪服を着るのは嫌だな、音楽も軽快なものにして欲しいし、何よりあの祭壇に大きな写真は絶対やめて!そう、いわゆる「お葬式」はやらないで欲しい。お茶会のように親しかった人だけ集まっていつものように笑いながらおしゃべりするような別れがいいのです。そして、お墓に納骨などはしないで、海に散骨して欲しいと思っています。こういう希望はきちんと何かに残しておかないといけないですね。
中世ヨーロッパの「死の作法」
ところで、中世ヨーロッパには「死の作法」なるものがあったという話を聞きました。死に行く者本人が自分のために行わなくてはならない作法で、社会的なシナリオにそって、自分の死を自ら演じながら最期のときを迎えなければならないとされていたそうです。
どんな作法かをご紹介すると・・
死が近いことを自覚したら腕を十字に組んで聖地エルサレムに顔を向けて横たわり、生涯を振り返って感謝し、身近な人々の加護を神に祈り、懺悔したりした後、自分の魂の救いを神に祈る。聖職者が体に聖水をふりかける儀式がすんだら、それ以上は何もせず、静かに目を閉じて無言で死を待つ。周りの者も話しかけてはならない。
おもしろいのは、本人が途中で手順を間違えると、周りにいる人が助言を与えて、修正させられることになるのだとか。余力が残ってなければ実践できない死の作法です。
もう自分は死ぬな~と感じたら、作法を手順どおりやって(間違えないように気をつけて)、静かに目を閉じ、無言で死を待つ。
まさに「作法を尽くして天命を待つ」ということですが、実際、死ぬ直前にそんなことができたのでしょうか? 自然な人間の身体というのは、自然である死を自ら迎え入れられるのかもしれないですね。猫が自分の死期の訪れを感じたら、姿を消すというのと同じように、本能的なものなのかもしれません。
生きることの延長に必ず死があるのだから、自分の最期をどうしたいのか考えることは、生き方を考えることなのではないでしょうか。葬儀はこうでなくてはならないということではなく、自分が最期にどんな死の作法、別れの儀式を実践したいのか。そしてそれが本当に実践できたらいいと思いませんか?
最期まで自分らしくあるために。
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