久原房乃助と日立 【2016年 第2回】

【2016年 第2回 久原房乃助と日立】風は西から・・・日本の産業を創った長州の偉人たち

上津原 章(ウエツハラ アキラ)⇒ プロフィール

 

こんにちは。山口県のファイナンシャルプランナー、上津原と申します。
2016年は、日本の産業を創った郷土の偉人たちを毎月取り上げたいと思います。
今回は、日立製作所の創業者の一人といわれる、久原房乃助氏を取り上げます。

 

 

新幹線が生まれる場所 山口県下松市

山口県下松市には、日立製作所の交通カンパニー社(笠戸事業所)があります。
新幹線のみならず、台湾新幹線も、イギリスの高速鉄道も、山口県下松市から生まれています。
新幹線など鉄道車両が生まれる場所は、私たちの身長の2倍以上はあろうかという高くて長い壁でおおわれています。
世界で通用する新幹線技術は、高い壁でしっかり守られているのですね。

 

久原房乃助氏の生い立ち

久原房乃助は、1869年に萩市にて商家の四男として生まれました。
東京商業学校(現在の一橋大学)を経て、1889年に慶應義塾(現在の慶應義塾大学)本科を卒業します。
卒業後は貿易会社に入っていましたが、やがて叔父の経営していた藤田組(現在のDOWAホールディングス等)に入社することとなります。
秋田県の小坂鉱山に赴任して、主力商品を銅にするなどして業績を伸ばしましたが、1903年に退職します。

 

日立鉱山の創業 ~最先端の工場・職場環境をつくる~

1905年に、久原氏は茨城県の銅山を買収し、やがて日立銅山と改名しました。
この会社は久原鉱業となり、現在のJX金属グループとなります。
銅山といえば、足尾銅山を含めて公害問題が盛んに言われていましたが、日立銅山では世界一の大煙突(当時)をつくり、煙害問題を解決していきました。
同時に、銅山やその周りを理想郷にするべく、働く場所の近くに住居だけでなく、病院や学校や娯楽施設などの街をつくりました。

 

銅山の生産性を上げる過程で、後に日立製作所の社長となる小平浪平が入社します。
彼のおかげで、銅山の周りに発電所ができ、銅山の設備が当時の最先端である電気で動くものへと改良されていきます。
1911年、彼は久原氏に懇願し、久原鉱業の機械工場として日立製作所を設立することとなります。

 

久原氏と下松

下松市には、日立製作所の工場以外にも、コマーシャルでも登場するJXの石炭貯蔵施設などがあります。
久原氏が大正時代に、下松市を一大工業都市にする計画をもって土地を買収したことがきっかけです。
残念ながら、この計画は第一次世界大戦後の不景気のため途中で断念することになります。
彼の志は、日立製作所の創業者小平浪平や久原氏の義兄鮎川義介に引き継がれ、下松市が今日のような工業都市へと発展していくのです。

断念した代わりに、工業学校をつくるための多大なる寄付を行いました。その時にできた学校が、現在の下松工業高校です。

 

今日の言葉

「一山一家」

鉱山で働くすべての人が家族であるという考え方。

従業員の会社に対する忠誠心のあらわれ。

 

大きな志を持ち、それを実行しようと努力すれば、誰かの目に留まってしっかりと成し遂げられていくのではないでしょうか。
世の中が不安定な時期だからこそ、世の中をよくするための自分なりの志を持つようにしたいものです。

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