マイアドバイザー® 池田龍也 (イケダ タツヤ)さん による月1回の連載コラムです。
目次
【第14回】 池田龍也 の ちょっと気になるニュースから 「日産はどうなるのか?」
池田龍也⇒プロフィール
▼ 今回の気になるニュースは「日産」です
<ニュース>
日産 国内外で7工場を削減の方針
2025年5月13日
日産自動車は昨年度1年間のグループ全体の決算、最終的な損益が6708億円の巨額の赤字に陥ったことを発表。
経営の立て直しに向けて世界で車両を生産する17工場のうち、すでに明らかにしていたアルゼンチンやインドを含む7工場を削減する方針。国内の工場も検討の対象に含まれるとしています。
さらにすでに発表した計画とあわせて2027年度までに国内外でグループ全体のおよそ15%にあたる2万人の従業員を削減するとしています。
▼ パナソニックに続く経営再建
先日のパナソニックの事業見直しに続いて、日産の経営再建のニュースです。筆者のような昭和のおじさんは、「あの名車フェアレディーZ、スカイラインを世に出した、あの日産が!!??」となってしまいます。
昭和の時代、自動車、電機といえば、輸出産業の花形でした。その輸出競争力を通じて、かつての日本の経済成長を牽引し、日本経済の黄金時代を築いてきた名門企業が次々と、経営立て直しが必要!といわれると、なんでだろう、なんだか寂しいなあ、とあの時代を肌で知っている人間は感じてしまいます。
日産といえば、輝かしい歴史を誇っていたことを思い出します。かつて、中国の鄧小平が訪れ、イギリスのダイアナ妃も見学に来た日産座間工場の紹介を筆者は昔まとめたことがあります。
かつて今回と同じようなことが日産に起きていました。何で同じようなことが起きるのだろうと思うくらい状況は酷似しています。
▼ 同じようなことが30年あまり前にも
1993年2月23日 日産が座間工場閉鎖を発表
この突然の発表を受けて、テレビはその日の夜のトップニュース、新聞は翌日朝刊で、各紙とも一面トップで伝えました。
昔ばなしで恐縮ですが・・・・・ちょっと脱線します。いまから30年余り前、あのころの時代の雰囲気をお伝えしますと・・・・・
筆者は、当時、自動車や電機産業をカバーする記者クラブを担当していました。自動車産業をメインに担当していた隣の同僚がぶっとんで原稿を書いていたのを思い出します。
当時の原稿は、紙の原稿用紙にボールペンで手書きで書いていた時代から、ワープロに移行している最中でした。いまでは死語になっていますが、そのワープロ=ワードプロセッサー専用機で原稿を書いていた時代でした。手書き時代の先輩たちは、まだまだ、「急ぐときは手書きで書け!」と言っていた時代でした。パソコンで原稿を書き、通信機能を使って原稿をそのままシステムに送り込むようになるのは、もう少し後のことです。
▼ 日本はバブル終了、世界はグルーバル経済に
原稿の書き方一つとってみても、かなり古い時代の話になるわけですが、このころの日本や世界はどういう時代だったのか。年表を紐解いてみると。ああ、あんなことがあったなあと思いだします。
1991年1月24日 政府・自民党、湾岸戦争多国籍軍に90億ドル援助決定
6月12日 ロシア共和国大統領選挙でエリツィン圧勝
12月25日 ソ連ゴルバチョフ大統領辞任表明、ソ連消滅
1992年3月26日 地価公示、17年ぶりに下落
12月3日 第3四半期のGDPマイナス1.6%
10月7日 米、カナダ、メキシコ北米自由貿易協定に調印
12月29日 米ロ外相、戦略核弾頭3分の1に削減で合意(STARTⅡ)
1993年2月23日 日産が座間工場閉鎖を発表
7月18日 総選挙、自民過半数割れで結党以来最低、55年体制崩壊
日本は昭和から平成に変わり、バブル経済は終わりを告げ、いわゆる「失われた30年」が始まろうという時でした。日産の話は、そういったバブル終焉のムードに追い打ちをかけるようなニュースでした。
世界では米ソ冷戦時代が終わって東西の壁がなくなり、核軍縮の機運も高まり、経済は、グローバル化といわれる時代に突入していく時代でした。
▼ 座間工場閉鎖
話は脱線しましたが、もどります。日産の座間工場閉鎖は衝撃でした。
同僚の記者の夜のニュースのリポートのテーマは、「なぜ日産は座間工場を閉鎖しなければならなかったのか」でした。同僚は次のようにまとめていました。「背景には3つの過剰。人員の過剰、設備の過剰、そして借金の過剰。それが日産を工場閉鎖に追い込んだ」というトーンだったのを昨日のことのように思い出します。
私は、同僚の取材を手伝い、後方支援にまわり、「日産座間工場とは」という業界でいう「とはモノ」を書いていました。同僚の本筋の記事が、より分かりやすくなるように、座間工場閉鎖がいかに大きな影響があるのか、座間工場の位置づけなど、関連の記事を書いて補強する役割でした。でその内容はというとざっと以下のようなものだったと思います。
「日産座間工場は、最新の設備を備え、生産ラインではロボットアームが動き回るなど、生産体制の自動化、効率化が進んだ最新鋭の工場として知られていました。1978年、当時の中国の鄧小平副首相が来日した際にも、この座間工場を見学したほか、1986年には、イギリスの当時のチャールズ皇太子もダイアナ妃とともにここを訪れるなど、日本の自動車産業の先端技術を象徴する工場として内外の注目を集めていました」
というような内容だったと記憶しています。
鄧小平の日産訪問については以下の記事もご参考で
http://www.peoplechina.com.cn/zlk/tpyws/202311/t20231103_800347935.html
▼ その後、ゴーン改革もありました
この頃、一度、経営見直しをしたはずの日産ですが、それで終わりませんでした。
1999年、フランス・ルノーから派遣されたカルロス・ゴーン氏が経営再建のために送り込まれてきました。「日産リバイバルプラン」を打ち出し、2、3年のスパンで、当期利益の黒字化、営業利益率4.5%以上、有利子負債を7000億円以下に、など明確な目標を掲げ、その対策として、
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- 村山工場(東京)など5工場の閉鎖
- 2万1千人の人員削減
- 系列取引の見直し
- 核となる中心事業以外はすべて売却対象に
などさらなるスリム化に向けた具体策を打ち出し、日産はいわゆるV字回復を果たしました。
その後のゴーン氏の状況はみなさまご存じのとおりです。
▼ 次の一手はあるのでしょうか
今回の経営問題再燃に関して、このような情報もありました。ここ7、8年のスパンでみると、日産の販売台数は激減しているのに、グループ従業員数はほとんど変わっていない、というのです。
スリム化にスリム化を進めてきたはずなのに、「人員、設備、借金という3つの過剰」が、いまだに課題になっているとは驚きです。
新興勢力との間で国際競争が激しくなる中で、販売台数、売り上げを増やしていくことが難しい状況なのかもしれません。しかし、スリム化を進めていくだけでは、縮小均衡に陥っていくだけなのもまた現実です。
最近のテレビのCMで日産は、自動運転の技術の先進性をアピールしていますが、かつて「技術の日産、信頼のトヨタ」といわれた、あの輝かしい時代はもう戻ってこないのでしょうか。日産がどう復活するのか、あるいはそうはならないのか、その行く末は日本の行く末を占う上でも重要な注目ポイントであることは間違いありません。
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