嶋田雅嗣 の 生命保険業界概観 第7回 【2025年5月】

生命保険業界の歴史を検証することで、将来への課題を探っていくコラムを連載していきたいと思います。証券と保険をマスターすれば、FPとして一本立ちできると言われます。なるほど、最も複雑で、顧客からのクレームの多い業界です。

一方で、無責任なマスコミ報道などにより間違ったイメージ・情報が定着した業過でもあります。「へぇ~!!」と驚かれる一般には知られないエピソードを交えながら、正確な現状を確認する一助となれば幸いです。

嶋田雅嗣⇒プロフィール

 

 

戦後日本の生命保険会社は、20社体制が長く続いていました。戦後復興の中で、「保険と国債は買うものじゃない」と、ハーパーインフレによる資産目減りの象徴として、激しく指弾されました。財務体質も脆弱な中で、生保レディー、いわゆる「保険のおばちゃん」がその屋台骨を支えてきました。

  ようやく、体制整備も進んだ頃、閉鎖的な日本市場の開放を強硬に訴える欧米からの声応えざるをえず、ようやく外資系生保の日本再進出への細道が切り開かれることなりました。
  以後、日本の生命保険市場は、販売チャネル、新商品ともほぼ全て外資系生保がリードしてきたと言っても過言ではないでしょう。

外資系生保の進出

  日本は1964(昭和39)年4月、OECD(経済協力開発機構)に加盟したことにより、OECDにおける保険自由化の方向に対しても業界として関心を持たざるを得なくなります。生命保険業界としては、自由化の早期到来を避けるため、事業の特殊性を訴えてその慎重な取扱を政府に重ねて要望していました。それに応じて1967(昭和42)年6月の外資審議会の答申では、生保事業が「非自由化業種」とされ、直面した資本自由化の影響を避けることができてました。
生命保険協会では、保険自由化と生命保険に関する研究を続けており、1968(昭和43)年11月には重ねて取扱の慎重処理を当局に要望しています。
 外資審議会は1969(昭和44)年2月、第2次資本自由化に関する答申を行います。これに基づいて、第1類(50%自由化業種)135業種、第2類(同100%業種)20業種で合計155業種(第1類から第2類への昇格を含めると167業種)が第2次資本自由化の業種として指定され、同年3月から実施されました。
1967(昭和42)年7月の第1次資本自由化の業種選定時に見送られた保険事業は、この第2次において、50%業種として指定されます。もはや、外資系生保の日本再進出は、避けられない事態となります。

  責任準備金積立の充実化、商品個別化、経理基準の統一などが行われ、生命保険会社の経営効率化、競争力の強化が推進されるなど、巨大な外資系生保への対抗策も着々と進められます。
  保険審議会による外資系の進出に関する諸問題の検討(1972年答申「国際化の進展による保険商品の諸問題」)を経て、保険市場も国際化への準備体制が整備されます。

アリコ・ジャパン

日本において外資系の生命保険会社が日本人向けの営業を開始するようになったのは、1972(昭和47)年にアリコ・ジャパン(現メットライフ生命)が政府から免許を取得し、翌年より営業を開始したのが最初です。
 アリコ・ジャパンは、アリコ(ALICO:American Life Insurance Company)の日本支社ですが、アリコは世界130数カ国で展開するAIG(American International Group)の中核生命保険会社です。1954(昭和29)年に、外国保険事業者法(外者法)に基づいて日本支店を開設し、外国人(主に米国軍人とその家族)を対象に、ドル建て営業で免許取得、営業を開始しています。   資本自由化により、営業政策を転換し、日本人向け円建契約の営業進出に大きく舵を切りました。
 AIGグループの損保社AIU(American Internationa Underwriter:現AIG損保)の代理店と直販社員を募集代理店として販売を開始します。以後、直販支社(CT:エージェンシーオフィス)、クレジットカードホルダー向け通信販売などにも進出し、少ない代理店数を補う数々に施策は、マーケティング理論を抑えた秀逸な方法として、大学の講義でも取り上げられています。
 商品面でも、医療単品、逓増収入保障特約(PMIB)、70歳満了定期、引受緩和型保険(OK保険)などを相次いで開発し、国内生保との差別化で急成長を遂げていきます。

 損保代理店は、損保社の意向で生保代理店を兼営することを強く縛られてきましたが、損保しか扱わないリスク、顧客対応力の強化の必要性から、生保販売を模索する動きは、1970年代後半から大きなうねりとなっていました。当時、地域の損保代理店に門戸を開いていたのはアリコ・ジャパンしかなく、多くの損保代理店が、アリコ・ジャパンの募集代理店となっています。
 ほぼ同時期に日本支出した、AFLAC(American Family Life Assurance Company of Columbus:現アフラック生命)は、企業代理店に委託し、職域募集をメインとしていたこと、商品がほぼ がん保険に限られていたため、損保代理店の生保委託といえば、アリコ・ジャパンが唯一の選択肢でもありました。

 AIGといえば、必ずモーリス・グリーンバーグ氏の名が必ず登場します。同氏は、1925(大正13)年にシカにゴに生まれ、米軍士官として第2次世界大戦と朝鮮戦争に従軍します。上海の損保代理店が起源で中堅クラスだったAIGに1960(昭和35)年に入社し、1967(昭和42)年に2代目CEOに就任すると、AIGを世界最大の保険グループに育てた保険業界屈指の策士です。2005(平成17)年に、不正会計疑惑で引責辞任しますが、日米の政財界に与えた影響は大きいものがあります。国内生損保の完全自由化を謡いながら、外資系生保の優越マーケットであった第三分野の大手生保、損保系生保への開放を遅らせるなど、独善的な主張に、国内生損保社は翻弄されたのが、記憶に新しいところです。

 モーリス・グリーンバーグ氏の辞任に象徴されるAIGの崩壊により、アリコ・ジャパンは、全米1位のメットライフ生命の傘下になり、アリコ・ジャパン、メットライフ・アリコ、メットライフ生命と社名を変更し、現在に至っています。

  1974(昭和49)年10月にAFLACも日本支店(アメリカン・ファミリー生命)として、日本人対象の円建て営業で、免許を取得します。同社の詳細は、次回に譲ります。

  資本の自由化が行われた後も、外資系生命保険会社の参入が大きく増えることはありませんでした。アリコ・ジャパンが1973(昭和48)年に営業を開始してから1988(昭和63)年のプルデンシャル生命の開業までは、2年に1社のスローペースでの参入認可となっています。監督官庁は、外資系生命保険会社に対する営業免許の基本方針は国内保険会社と同一の条件下で審査を受け、免許を取ることが原則にありました。さらに、外資系生保の進出では、「新商品、新販売手法など、従来にない手法でマーケット開拓する場合に限る」というのが当時の行政の方針であったのです。
  進出形態別にみると、現地法人は保険業法によって
・日系生命保険会社と同一に承認
・支店は外国保険事業者に関する法律によって承認
・駐在員事務所は別途の基準なしに金融庁(当時の大蔵省)の審査を経てから承認することになっています。
  法的な拘束力では、外資系生命保険会社への監督は日系生命保険会社と同じく、実際的にも特に変わっていることはなく、特段の優遇策、特例的な規制もありません。しかし、許認可は、支店形態での進出のほうが、取りやすかったようです。

  生命保険・損害保険業界を通じて初めて、100%外資による現地法人という形態での進出(INA生命:現SOMPOひまわり生命)にも認可が与えられています。 この外資系生命保険会社に対する認可基準の変更理由は明確にされていませんが、外資系生命保険会社に対して独創的な営業方法を要求すること、すなわち外資系生保が新たに日本に進出する場合、「新商品、新販売手法など、従来にない手法でマーケット開拓する場合に限る」という当時の行政の方針は、当時の「外国保険事業者に関する法律」の第1条に掲げた国内業者との「衡平の条件」に矛盾するとの指摘があり、日系生命保険会社と外資系生命保険会社間の不平等な取り扱いという印象を与えたことが大きく影響しているようです。

■外資系生保の進出ラッシュ

その後、「契約者の利益を損しない」という一般的で、極めて抽象的な条件に変わり、西武オールステート生命(現ジブラルタ生命)、ソニー・プルデンシャル生命(現ソニー生命)、INA生命などが1980年代に相次いで進出してきます。

 米国のオクシデンタルは1976(昭和51)年に、平和生命と合弁で販売会社「平和オクシデンタル」の設立で日本進出を計画。東京新宿の平和生命ビルに事務所を設置し、内免許を受けましたが実現には至りませんでした。

 外資系でも、経営体力のないところはその後、経営主体が替わっています。オマハ生命(ユナイテッド・オブ・オマハ)がオリックス生命に、INA生命は提携先の安田火災に株式を譲渡しINAひまわり生命(現 SOMPOひまわり生命)に、エクイタブル生命は、ニコス生命(日本信販の子会社)、クレディ・スイス生命、ウインタートゥール・スイス生命、アクサ・フィナンシャル生命、アクサ生命と経営主体と社名が度々変更しています。
 外資系の双璧と言われたアリコ・ジャパンも、リーマンショックの影響で解体・再編されたAIGの手を離れ、メットライフ・アリコ、メットライフ生命と社名変更をおこなっているのは、あまりにも有名です。

 特色ある外資系生保の事例として、西武オールステート生命を確認しておきます。

■西武オールステート生命(現ジブラルタ生命)

1975(昭和50)年、西武流通グループ(後のセゾングループ)が米国のオールステートと合弁で設立しましたが、事業会社による保険事業進出であり、その設立には業界内外に賛否両論渦巻き、国会でも取り上げられるなどセンセーショナルな出来事でした。
 販売は、西武百貨店内に設けられた金融コーナー内の保険ショップでの販売と、固定給社員による販売をメインチャネルとして当局により認可されています。新卒社員も積極的に採用しますが、定着率の低さが課題となっていました。
 3年ごとの契約応当日に消費者物価の上昇率に応じ無告知で保険金を増額できる「インフレガード条項」や「高額割引制度」の導入など、従来の会社にない特徴を打ち出しており、生命保険業界では、アリコ・ジャパン、AFLACと並び、その動向には注目が集まっていました。

 西武セゾングループ(のちのセゾングループ)は、FP事業にも関心をもち、西武百貨店の外商をFPとして育成し、生損保販売に活用する構想がありました。百貨店の外商は、唯一富裕層のお茶の間にまで上がり込むことができます。彼らは、富裕層の生活実態を知る尽くしており、冠婚葬祭のしきたりなどにも長け、富裕層の身近な、そして内密の相談にも対応できる特異な存在です。富裕層も銀行員には見せない生活も見せており、顧客の懐に入り込む術にたけています。事実、外資系生保の成功者に百貨店の外商出身者が多くいます。また、プライベートバンクにも、元外商出身者が複数いると言われています。
 しかし、専用の通信教育、集合研修をおこなうなどした育成途上で、セゾングループが崩壊しており、この野心的な取組も、途中でうやむやになってしまいました。

 変額保険の販売にもトライしましたが、新契約件数が少なく特別勘定の運用に困難をきたす、維持管理費用が嵩むことを理由に、保有契約件数23件の時点で、全契約の解約を契約者に申し出ています。その後の変額保険トラブルを見るに、ある意味で先見の明があったと言えるでしょう。
 マーケティングに長けたセゾングループの生命保険会社らしく、導入したシステムは、あらゆるデータの抽出、加工ができることが特長でしたが、ほとんど活用されていなかった点が残念です。

 1990(平成2)年に、セゾン生命に社名変更し、名実とともにセゾングループの一員であることを強くアピールしますが、2002(平成14)年に、セゾングループの崩壊に伴い、GEエジソン生命(後のAIGエジソン生命、現ジブラルタ生命)に吸収合併されていきます。

  同社の特色の一つは、初めてグループ会社で生損保兼営を実現したことです。
  1982年(昭和57)年に、米国の大手損保会社 オールステートの全額出資で日本に進出したオールステート自動車火災保険が、1984(昭和59)年にセゾングループ入り(セゾングループ4社が資本参加)し、生損保の実質併売体制を確立します。1998(平成10)年に、セゾン自動車火災保険に社名変更し、名実ともに、生損保併売を実現しますが、販売チャネルの脆弱さ、親会社であるセゾングループの崩壊により、オールリスクマネジメント、クレジット会社等を含む、総合金融サービスを目指していたものの、生損保社がそれぞれ別のグループに引き取られたことで、画餅に終わってしまいます。

 セゾン生命がセゾングループの崩壊によりGEエジソン生命に吸収合併されたのと時を同じく、セゾン自動車火災保険も2002(平成14)年に損保ジャパンの傘下に入りします。現在では、40歳以上の中年層の保険料を割安にした「おとなの保険」で急成長しています。2024(令和6)年10月、SOMPOダイレクトに社名変更しています。

オールステートが日本に進出する際に、社名を巡って交わされたとされているのが、「火災自動車」にするか「自動車火災」にするかあるは他の名称にするかというものでした。保険業法では、社名に主力業務内容が分かるようにすることになっていますが、これは、1996(平成8)年の改正保険業法にも継承され規定されています。

【保険業法第7条】(商号又は名称)
 保険会社は、その商号又は名称中に、生命保険会社又は損害保険会社であることを示す文字として内閣府令で定めるものを使用しなければならない。

  東京海上、三井海上、住友海上の3社は海上保険が設立時には主力で火災保険が従であったため「○○海上火災保険」を名乗り、安田火災などの他社は「○○火災海上保険」を名乗っています。
  オールステートの場合、主力は火災保険、自動車保険、傷害保険がメインとなることは明らかでしたが、「火災自動車」とすると「火の車」となり、縁起が悪いと、自動車火災を名乗ったと言われています。
 最近では「○○損害保険」を名乗るようになってきました。

主な外資系生命保険会社と現況

営業開始 形態 社名(現社名) 営業開始初期の特色
1973(昭和48)年 支店 アリコ・ジャパン
(現メットライフ生命)
・無配当保険(定期、変額・終身保険)、医療保険
・代理店、専業募集人,店頭販売、通信販売・アメリカ
1974(昭和49)年 支店 AFLAC
(現アフラック生命)
・がん保険
・代理店、通信販売・アメリカ
1976(昭和51)年 現地法人 西武オールステート生命

(現ジブラルタ生命)

・無配当保険(終身保険中心)
・百貨店の店舗の「保険ショップ」での募集と、固定給営業社員
・アメリカと日本(西武流通グループ:のちのセゾングループ)の合弁
1982(昭和57)年 支店 コンバインド
(現SBI生命)
・交通事故傷害給付金付定期保険
・男子専業募集人・アメリカ
現地法人 INA生命
(SOMPOひまわり生命)
・損保代理店(安田火災と提携)による募集
・アメリカ
現地法人 ソニー・プルデンシャル生命
(現ソニー生命)
・大卒男子による専業募集(ライフプランナー制度)
・アメリカと日本(ソニー)の合弁
1985(昭和60)年 支店 ユナイテッド・オブ・オマハ(オマハ生命)
(現オリックス生命)
・無配当保険(定期・年齢群団別定期保険)、医療保険
・代理店、通信販売・アメリカ
1986(昭和61)年 支店 ナショナル・ライフ
(現NN生命)
・医療保険、無配当保険(終身・定期・連生年金保険)
・代理店(メインはシェル石油のSS)・オランダ
現地法人 エクイタブル生命
(現アクサ生命)
・変額保険(終身型・有期型)
・専業募集人による変額保険・アメリカ
1988(昭和63)年 現地法人 プルデンシャル生命 ・大卒男子による専業募集(ライフプランナー制度)
・アメリカ
1995(平成7)年 現地法人 アクサ生命 ・無配当保険(終身・定期保険中心)
・代理店、専業募集人、通信販売・フランス
1996(平成8)年 支店 チューリッヒ・ライフ・インシュアランス
(現チューリッヒ生命)
・がん保険
・通信販売・スイス
2000(平成12)年 支店 カーディフ生命 ・団体信用生命保険(住宅ローンとのセット販売)
・銀行窓販・フランス
現地法人 ハートフォード生命
(現オリックス生命)
・変額個人年金
・銀行窓販・アメリカ
2001(平成13)年 現地法人 三井住友海上シティ生命
(現三井住友海上プライマリー生命)
・変額個人年金
・銀行窓販・米国(シティバンク)と日本の合弁会社
2007(平成19)年 現地法人 クレディ・アグリコル生命 ・変額個人年金
・銀行窓販・フランス
2008(平成20)年 現地法人 アリアンツ生命
(現イオン生命)
・変額個人年金
・銀行窓販・ドイツ
現地法人 SBIアクサ生命
(現アクサダイレクト生命)
・医療保険、がん保険(通信販売)
・フランス、日本の合弁会社
2009(平成21)年 現地法人 ソニーライフ・エイゴン生命
(現ソニー生命)
・変額個人年金(銀行窓販)
・オランダ、日本の合弁会社

 

*支店形態は、全て現地法人化しています

 

 

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