日産自動車と鮎川義介 【2016年 第4回】

【2016年 第4回 日産自動車と鮎川義介】風は西から・・・日本の産業を創った長州の偉人たち

上津原 章(ウエツハラ アキラ)⇒ プロフィール

 

こんにちは。山口県のファイナンシャルプランナー、上津原と申します。
今回は日産自動車の創業者、鮎川義介について取り上げたいと思います。

 

 

山口市大内地区には、山口日産自動車の本社があり広大な敷地にぎっしりと車が並んでいます。
創業は1929年と、実はあの日産自動車より歴史が古かったりします。
県内では「やまぐち、にっ、さん」の独特の節回しのあるコマーシャルで知られています。

 

生い立ち

鮎川義介は、長州藩士であった父と井上馨の姪である母との間に、明治13年(1881年)に現在の山口市大内地区に生まれました。
旧制山口高校を経て、大叔父である井上馨の影響もあり、東京帝国大学工科を卒業します。
当時は技術者を目指すのは少数派でしたので、大叔父に先見の明があったといえます。

 

職工からのスタート

東京帝国大学卒業後、芝浦製作所(現在の東芝)に身分を隠して工員として働きます。
大叔父から財閥企業への就職を薦められますが、それを蹴ってのことです。
当時の技術は西欧の真似であったことから、やがて鋳造技術を研究するため渡米することになります。
渡米した時もクルド・カプラー社などで工員として働き鋳鉄技術を身につけます。
野村證券の創業者である野村徳七がアメリカ視察の際、工員であった彼と出会っています。

 

実業家になる

大叔父や久原氏(日立製作所の創業者の1人)、貝島氏(貝島炭坑の経営者)の支援もあり、アメリカから持ち帰った可鍛鋳鉄という強度を上げた鉄鋼をつくる技術をもとに、明治43年(1910年)に戸畑鋳物株式会社を設立します。
現在の日立金属株式会社九州工場です。
この工場では、当時は水道などの配管同士をつなぐ継手を製造していました。
もしかすると、水道管の継手の真ん中あたりにあるひょうたん印に見覚えがある方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 

日産自動車の誕生

1931年に、戸畑鋳物株式会社は、久保田権四郎(水道管製造を祖業とする株式会社クボタの創業者)が経営していたダット自動車製造株式会社を傘下にします。
組織変更を経て、1934年に鮎川氏が率いる日本産業の100%子会社、日産自動車となります。
1932年にはダットサンという小型乗用車を完成させています。

可鍛鋳鉄技術が、今度は耐久性を要求される自動車部品へ活かされることになります。
日立金属株式会社九州工場では、現在も自動車部品が主力製品の一つになっています。
以前はコマーシャルで「技術の日産」とよく言われていましたが、鋳鉄などの基本的な技術を大事にすることが今日につながっているのかもしれませんね。

 

実は鮎川義介の活躍は、戸畑鋳鉄や日産自動車にとどまりません。
次回は、第二次世界大戦中から戦後、晩年の話をお送りいたします。

 

今日の一言

「人がお金を借りに来たら、持ってきた額の倍を貸してやれ」

人がお金を借りるときは、本当に必要な金額よりも少ない金額をいうものだ。
だから、お金を貸すときはお金をあげるつもりでいわれた金額の倍の金額を渡せば、相手は将来の安心を得るとともに、感激するのではないでしょうか。

私もそうですが、友人や知人、親族からお金を貸してほしいと言われれば、多くの方は断るのではないでしょうか。
お金が還ってこない可能性を恐れるからです。
そのリスクを承知でお金を貸すところに彼の人柄のようなものを感じるのではないでしょうか。

大胆にして細心であれといわれますが、時には計算尽くで行う思い切ったお金の使い方も大事ではないでしょうか。

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